本記事以前のポストの流れ
1. いずみのかな氏の投稿1
いずみのかな氏が以下のポストを投稿しました。
https://bsky.app/profile/runcoa.bsky.social/post/3lchp2a5vkk2n
「だから戒厳に反対して雪の深夜に1万人近く集まった市民は立派だと思うが、そもそもそんな戒厳令出すようなのを大統領に選んだのも市民だし、野党の方にもそこに至る原因の一端はあるわけだから、結末だけ見て成熟した民主主義とか絶賛するのはどうかと思うよ」 twitter.com/nysalor/stat...
同じ意見なので引っ張ってきてしまった。市民議員与野党問わず戒厳令を無効にするため動いたことへの称賛は手放しの称賛として、今の韓国の政治的混乱や野党の責任や分断もあるというか…
つまり「美化も貶めも同じ利用でしかない」といういつもの。
思想がもたらす深刻な分断については反面教師の意味でも知っておきたいし、韓国市民が時間を掛けてでも分断を乗り越えるのも信じたい
2. 僕の投稿1
それに対して僕は下記の文章を投稿しました。
https://bsky.app/profile/darakeru.com/post/3lchun5fdas2u
某I氏の意見に反論したいが、ちょっとねかせる。ただ一言言っておくなら、「社会の分裂が問題だ。右派も左派も対立するだけではなく、社会統合のために頑張らなくてはならない」という主張は「社会を統合する強力なリーダーが、例え独裁的であっても必要だ」という主張と、ほとんど重なるよね。
https://bsky.app/profile/darakeru.com/post/3lchuwuljec2u
やっぱり我慢出来ないので一言言っておくと、10%程度の支持しか得てない大統領が暴挙に出た時に、その10%に責任を問うならともかく、9割の市民や政治勢力に「お前らにも戒厳令を招いた責任があるんだぞ!」と責めるのは、わけがわからないというか、まさしく今回ユン大統領がのたまった「政治的混乱を解消するために戒厳令を引いた。これは野党のせいだ」という妄言と何が違うのだろう。
10%の側に付いていた、与党側に責任を求めるならともかく。
https://bsky.app/profile/darakeru.com/post/3lchvcuvbok2u
トランプ支持者とか、斎藤・立花支持者、維新・国国支持者についても、「彼らがなぜそういう支持をすることになったのか」ということへの理解・共感は必要だけど、それはあくまで「彼らがダークサイドに堕ちてしまっている」「彼らの主張は間違っており、阻止しなければならない」という前提の元にされないと危ういと思うよ。それがなければ、それこそ「ヒルビリー・エレジー」の著者がトランピストになったみたいに、「ダークサイドこそ正義!」みたいな主張に行ってしまう。
https://bsky.app/profile/darakeru.com/post/3lchveglalk2u
「日本のTVメディアそんなに悪くない」論にも反論したいが、それはまた後で。
3. いずみのかな氏の投稿2
上記の投稿に対し、いずみのかな氏は以下のように反論しました。
https://bsky.app/profile/runcoa.bsky.social/post/3lchvhrrsvs2j
私自身が、日本に当てはめれば自民党政権や小池都政が続いているのは、いま支持している層や選挙で投票した人だけの責任ではないと考える、小池都知事にも自民党にも投票したことがない都民なので…
https://bsky.app/profile/runcoa.bsky.social/post/3lchwgm23mk2t
今回またトランプを大統領にしたのは米国国民だし民主党にも選挙に勝てなかった理由はあるよね、という話を「トランプに投票しなかった人たちを、お前たちのせいだと"責める"のか」と出力されると、いつまでも分析とかはできないわけで(という話がしたい)(距離を取った俯瞰は決して責めではないというか)
https://bsky.app/profile/runcoa.bsky.social/post/3lcjn5c3vkk2h
一晩経っても釈然としないことは出力しちゃうが、•尹錫悦を大統領にしたのも韓国の国民 •野党の議事運営にも問題はあった •最後の最後で市民が動いたことは素晴らしい •しかし成就した民主主義と絶賛一色なのも違う という意味の短文に同意したら、「耐えられない、韓国市民を責めるのか」と𠮟りがくるの、まず上の内容に責めの意図はないし、次に民主主義である以上支持の有無に関わらず有権者は常に政治と社会に責任はあるし、たぶんこの話も伝わらない気がするし…
SNS、なにかへの共感で分断が促進するツールでもあるよな…
他の在韓日本人の方も言われていたし同様にいま大統領府前で「二回も弾劾求めることになっちゃった」とデモしている人も、投票の有無に関わらず大統領を選んだのも国民である我ら、という責任を自覚しているから集まっているのだと思う。野党の議事運営が仮に報道や韓国情報チューバーの言う通りならまるでれいわと野党時代自民党の合わせ技でやはり問題がある(にわかに信じがたいので真偽は保留している…)。
そこに投票した、支持した人のみに責任があるという視点を投入しちゃうと、外部において「市民」が分断の言葉になる危険性がある気がするのだぬ…
なお尹大統領を支持する人も、はじめに尹候補に入れた人も、今回の大統領の狼藉を知ってて家にいた人も、夜勤で働いてたり寝て起きたら全部終わってた人(この割合がたぶん一番多い)も、NHKが当日リポートしたように街で普通に過ごしていた人も、いまの野党支持者も、国会に駆けつけた人も、ひっくるめて有権者という責任ある「市民」「国民」だし、今回ひっかかっているのは日本でも支持政党や保守革新などで「誇らしい市民」という分断が起こる、起こっていることへの警戒心だと思う…。相容れないも人も共感できない人も、責任ある同じ市民なわけで…
本記事の主張
本記事は、以上のいずみのかな氏の投稿や、その他ポストに対し、自分がおかしいと思う点を批判するものです。
自分が上記のやり取りの中で、「いずみのかな氏の主張のここがおかしい」と思った点は、以下の点になります。
- 今回の戒厳令を起こした責任は、第一にユン大統領、及びユン大統領を支持・投票した側にあるのであって、「韓国国民全員に責任がある」「与党側だけでなく野党側にも責任がある」という主張はおかしい
- 「成熟した民主主義」という賛美を否定するのはおかしい
- 「分断を乗り越える」ことは大事ではない。むしろ分断こそ民主主義の原動力だ
さらに、この3点に加えて、以下の点についてもいずみのかな氏を批判します。
- 日本の地上波テレビが戒厳令について、即座に中継し、特別報道番組などを組まなかったことが批判されることに対して「速報性より正確性を取ったのだから批判すべきではない」と反論するのは論点がズレている。
1. 今回の戒厳令の責任を誰が取るべきか
まず、今回の戒厳令の責任を誰が取るべきかについて。
「責任」の語義の問題
ただ、その議論をする前に確認しておきたいのは「責任」という言葉の語義についてです。
いずみのかな氏は、「韓国国民全体に責任がある」という主張をする一方で、僕の投稿に対し以下のように反論しています。
"責める"のか」と出力されると、いつまでも分析とかはできない
距離を取った俯瞰は決して責めではない
責めの意図はない
つまり、いずみのかな氏の語法では「〇〇に責任がある」ということと、「〇〇を責める」ということは全く異なるらしいのです。むしろそれは「距離を取った俯瞰」であると。
しかし、これは僕にはとてもおかしな議論に思えます。それこそ漢字の字通りに考えれば、「責任」という単語にはまさしく「責」という漢字が含まれています。
また、言葉の用法で考えてみても「戦争責任(あるいは「戦後責任」)」という言葉においては、「戦争を起こした側」、「戦争で加害を行った側」を責める文脈で用いられます(「天皇の戦争責任」という言葉は、天皇を責める概念だったからこそ、多くの保守派が認めなかった)し、「自己責任(論)」という概念は、「〇〇はお前がなんとか対処すべき問題だ(だから社会は責任を負わない)」というふうに、個人を責める概念なわけです(僕は最初このような概念として、いずみのかな氏が「責任」という言葉を使っていると理解しました)。
もちろんそうではない用法もあります。例えば以下の厚生労働省のPDFでは、「企業の責任」として
- 予防責任
- 補償責任
- 賠償責任
- 死傷責任 という4つの責任を挙げています。
https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei14/dl/080201b_0010.pdf
これらは、確かに直接は「企業を責める」ものではないでしょう。しかし、これらの責任が果たされず、例えば予防責任を果たさなかった結果労災が起こるなどしたら、それは即座に「企業を責める(責を負わせる)」ということに繋がるわけです。
そして、その用法で、今回の戒厳令について「韓国国民全体に責任がある」というならば、それは「韓国国民全体を、民主主義を守る責任を果たさなかった点で責める」という意味になると、僕は解釈します。
いずれにせよ、「距離を取った俯瞰」などという意味は、「責任」という概念には全く含まれません。
「社会の分断」や「国会内の混乱」と戒厳令は切り離して考えるべき
上記のことから、僕は、いずみのかな氏の「韓国国民全体に責任がある」「与党だけでなく野党にも責任がある」という言葉を「国民全体や野党を責めるものだ」と解釈し、それはおかしいのではないかと批判しました。
それに対していずみのかな氏は
「耐えられない、韓国市民を責めるのか」と𠮟りがくる
という風に、僕が感情的に反発しているだけだと反論しました。
しかし僕は、別に「韓国市民が責められるなんて可哀想だ」という感情的な理由だけで、いずみのかな氏の議論を批判したわけではありません。もちろん、感情的にもいずみのかな氏に反発はしましたが、それよりも「韓国市民や野党に、今回の戒厳令の責任があるというのは論理的におかしくないか?」と考えたわけです。
理由は単純明快に「戒厳令を布告したのはユン大統領の意思であり、ユン大統領がしたことであり、さらに言えばユン大統領しかできなかったことなのだから、単純にユン大統領の責任だろう」「さらに言えば、ユンにそのような権限を与えた、与党・支持者にも責任があるだろう」と考えるからです。
それに対していずみのかな氏は、「社会が分断したまま、国民はそれを統合しようとしなかった」「野党が問題ある議事運営をした」という点を持って、韓国国民や野党にも責任はあると主張します。それこそ、今回ユン大統領が「国政が混乱しているから、私は仕方なく戒厳令を布告したんだ」と言ったのと、同じロジックで。
しかし、これは様々な識者がメディアで散々指摘している様に、ロジックとして破綻しています。
https://digital.asahi.com/articles/ASSD37S6KSD3UHBI00CM.html
過去の戒厳令は、国内が騒乱状態になり、警察力で抑え込めなくなった際に、軍を投入するために布告されました。
過去、戒厳令が布告されると、大通りの交差点や駅、市役所前などに軍部隊が戦車と共に配置されました。人々は発砲の危険を感じ、自然とデモや集会の動きが止まりました。
戒厳令は長くて1カ月ほどで、騒乱状態が収まるにつれ、戦車や部隊の数も減っていき、最終的に解除されました。
しかし、私の印象では、今回混乱しているのは韓国の国会に限られているようです。尹大統領が語ったように、野党が官僚や閣僚の弾劾(だんがい)決議を連発し、主要な法律や予算の成立を阻止しています。
でも、国会の外では人々は秩序のある暮らしをしていました。集会を開いても法律違反を犯しているわけではありません。そんな状況で、「非常戒厳」を敷くという行為は理解できません。
国会内で混乱が起こり、保革の分断で政治が停滞する。そこには確かに国民全体や、野党にも責任があるかもしれません。
(僕としては、それぐらい激しい対立が起こるのは民主主義の必要コストだと思うし、それによって政治が停滞するなら、それはそもそも存在する必要がある停滞であると考えますから、「国会内の混乱」を問題視する識者の見方には同意できないのですが、それはおいておきます)。
ですが、それは戒厳令を容認する理由には全くならないわけです。「社会の分断」や「国会内の混乱」があっても、それが戒厳令を正当化する理由とはならないのならば、「社会の分断」や「国会内の混乱」を生み出したからといって、そこからは生じ得ないはずの戒厳令について、責任を負わされるのは、論理的に間違っていると、僕は考えます。
2. 「成熟した民主主義」という賛美はおかしくない
次に、「『成熟した民主主義』という賛美はすべきではない」という主張について。
いずみのかな氏は以下のように述べ、「成熟した民主主義とか絶賛すること」を否定します。
結末だけ見て成熟した民主主義とか絶賛するのはどうかと思うよ
成就した民主主義と絶賛一色なのも違う
このいずみのかな氏のように「韓国の民主主義を成熟しているとかいうのはおかしい」と報道するのは、実際日本のマスメディアでも数多くなされているようです。
https://x.com/Luckychan0105/status/1864230220485865821
Nスタ 井上貴博
「韓国ではまだ民主主義が根付いていないのかな」
この局アナ発言には驚かされる。
尹大統領が非常戒厳宣布し、与野党を超えて民衆が国会に集結し命懸けでクーデター阻止。この背景には、1987年 独裁政治を民衆の力で終焉させた韓国の民主主義の歴史がある。日本の方が危うい。
ですが、このような大手メディアで垂れ流される意見に対し、韓国の男性は朝日新聞の記者に、以下のような反論をしました。
https://x.com/hajimaru2/status/1864559529901572467
かつて取材した「孤独のグルメ」ファンの韓国の男性から連絡がありました。《日本の民放アナウンサーが「韓国は民主主義が成熟していない」と発言したことに心を痛めました。 民主主義の大切さを知っていたので、市民が国会を守りに行ったのです〉》続く
《戒厳軍に立ち向かうということは死を覚悟することです。 兵役を経験した私は軍隊に対抗することがどういうことなのかよく知っています。 それでも私はその夜に国会に行き、塀を飛び越えました。 その日、国会に駆けつけた数万人の全員が固い覚悟をして集まりました》
もちろん、「何をもって民主主義が成熟しているか」ということは、「成熟した民主主義」がそもそも存在しているのかも含めて、絶対的に測るのは不可能ですから、 「韓国の民主主義が成熟しているか否か」という問いに対し、厳密に答えるなら、答えは「回答不能」 です。
しかし、その測定不能な問いに対して、あえて日本人が「韓国では民主主義が成熟していない」などと言うのならば、そこには暗喩として「(成熟した民主主義である日本と比べて)」という前置きがあるわけです。
また逆に言えば、「韓国では民主主義が成熟している」という言葉には「(民主主義が成熟していない日本と比べて)」という前置きがあるでしょう。
では相対的に、日本と韓国の民主主義を比較すると、どちらが成熟していると言えるのか。
この点に対し「日本のほうが成熟している(韓国は未成熟だ)」と主張する方は、「韓国では政治を巡って混乱が起きているが、それに対して日本は平常に政治が行われているから、韓国より日本の方が上だ」と主張します。つまり「平常であるか否か」ということを、民主主義の成熟度とするわけですね。
ですが、もし「平常であること」が民主主義であるとするなら、それこそ支配政党に対しなにも文句を言わず、粛々と支配政党が「選挙」によって選ばれる、中国・ロシアや朝鮮民主主義人民共和国のような政体こそが「成熟した民主主義」ということになってしまいます。
一方で、後者のツイートで紹介されている韓国市民は、「民主主義のために命をかける覚悟が国民にあるかどうか」こそが、民主主義の成熟度を測るパラメーターであるとみなしています。
それこそ暴力装置の動向や、アメリカ・中国含む外国勢力の動きによって「社会が平常であるかどうか」というのは、国内の意思とは関係なく、いかようにも変化します(そのことは、まさしく未だ「休戦中」であり、超大国によって政体を左右されてきた韓国だからこそ、切迫して理解できることでしょう)。
そのような中では、外部要因によって変化しない「国民の間で、民主主義に対する思い入れがいかに強いか(このような思い入れをユルゲン・ハーバーマスは「憲法愛国主義」と定義しました)」こそが、民主主義の成熟度を測るパラメータであるという考え方もありうるわけです。
そして僕は、前者のような「社会の平常度」より、後者の「国民の間で民主主義への思い入れがどれだけ強いか」を民主主義の成熟度として測る考え方のほうが、妥当なんじゃないかと考えるわけです。
そして、「社会の平常度」に基づいて民主主義の成熟度を測る、誤った考え方に基づいて「韓国の民主主義は未成熟である」という意見が、大手マスメディアや、日本人の意識の中で大勢を占めている以上、そのような誤った考えを批判するために、パフォーマティブに「韓国の民主主義は(日本より)成熟した民主主義である」と賛美するのは、認められるべきと、考えます。
3. 「分断」があることは、むしろ民主主義なら当然受け入れるべきもの
第3に、「分断」について。
いずみのかな氏は、以下のように述べて、「分断」を殊更警戒し、「分断を乗り越える」ことこそが民主主義において重要なんだと述べます。
思想がもたらす深刻な分断については反面教師の意味でも知っておきたいし、韓国市民が時間を掛けてでも分断を乗り越えるのも信じたい
今回ひっかかっているのは日本でも支持政党や保守革新などで「誇らしい市民」という分断が起こる、起こっていることへの警戒心だと思う…。相容れないも人も共感できない人も、責任ある同じ市民なわけで…
「責任」という言葉の用法がおかしいことや、「分断がある」ことが戒厳令を布告させたという見方がおかしいことは、1で述べたので繰り返しません。
ここで問題としたいのが、「思想がもたらす分断」こそが、戒厳令を生み出したと、いずみのかな氏が述べ、韓国国民や、また日本国民も「分断」を乗り越えなければならないと主張していることです。
僕は、以前ブログの記事でも述べましたが、それぞれの人物が一番大事にしているもの、価値観の違いこそが、思想(イデオロギー)の違いを生むのであり、そうである以上、人々の間で思想が異なり、それによって対立・分断が起こるのは至極当然であると考えています。
https://amamako.hateblo.jp/entry/2024/10/11/182552
各々が大事にしているもの(価値観)の違いが、思想の対立・分断を生む。
にも関わらず、思想による対立・分断を生まれないようにするならば、それは必然と、価値観の違いを許さず、「これを人生で一番大事にしろ」と、体制が市民に強制する政治体制になります。
そして、その大事なものが「天皇」であったのが、まさしく戦前の大日本帝国であり、「反共」であったのが、軍事政権下の韓国だったのです。
一方で、民主主義体制においては、「何を人生で大事にするかは、個々人の自由である」とされます。故に、民主主義においては様々な思想が、対立・分断しながらも、並立する。むしろそこで 「民主主義だけど人々が分断していない」という政治体制があるとしたら、それはまさしく、中国・ロシアのような、ニセモノの民主主義なのです。
むしろ民主主義とは、分断が人々の間に存在していることを前提とした上で、その分断を暴力沙汰ではない形で対立させるシステムであると言えるわけです。
例えば今回、ユン大統領は「反共」という思想で持ってクーデターを起こそうとし失敗しました。ここには「自分の敵を共産主義者とみなし、それを絶対許さない(反共)」と「反共によって市民を弾圧することを絶対許さない(反・反共)」という2つの分断された思想があるわけです。
ここで、思想による分断を乗り越えるとするならば、それは「反共」、「反・反共」、あるいは「反共と反・反共の中間にあるもの(今流行りの言葉で言うなら「極中道」なのかも)」、どれか一色に国内の思想を染め上げることになるでしょう。しかし、それはどれも民主主義に反します。
民主主義はそうではなく、「反共」「反・反共」という、相容れない価値観が社会に存在することを認めたうえで、その対立が、暴力沙汰にまでエスカレートしないよう、正しく対立させるメタシステムであるといえるでしょう。
そして、そのメタシステムの中で、「反共」「反・反共」というそれぞれのアクターが、いかに相手のヘゲモニーを奪い取り、自分のヘゲモニーとするか競い合うわけです。
そして、以上のような見方をすると、今回ユン大統領が行った反民主主義の策謀に、なぜ保革がそろって抵抗できたかも理解できます。今回保革がそろってユン大統領に抵抗できたのは、保革が激しく分断・対立し、相手のヘゲモニーを奪おうと競い合っていたからこそ、その相手のヘゲモニーを奪えるかもしれないゲームシステムを壊そうとした策謀に抵抗したわけです。
もしここで、保革が「分断は乗り越えなきゃならないよね」とかゆるく、熱意なく政治をやっていたら、深夜国会前に数千人を集めるような動員はできなかったでしょう。対立・分断こそが、民主主義における、各政治アクターの原動力なわけです。
以上のことから、僕は「分断は乗り越えるべき」といういずみのかな氏に反し、分断こそ民主主義を生み出し、支える原動力であると主張します。
4. 日本の地上波テレビはリアルタイムで戒厳令発布から解除までを中継すべきだった
最後に、いずみのかな氏の、日本の地上波テレビメディアに対する擁護も、僕は同意できなかったので、その点についても批判します。
日本の地上波テレビメディアが、戒厳令布告から解除まで、ほぼ平常通りの放送を行い、報道特別番組などを編成しなかったことは、色々の人が批判しています。例えば朝日新聞の有識者コメント欄で阿部藹氏は
https://www.asahi.com/articles/ASSD356RGSD3UHBI032M.html?comment_id=30335#expertsComments
しかし隣国の大統領が非常戒厳を宣布するという非常事態そして政治的危機を前に、日本のテレビ各局の反応は鈍く、リアルタイムではほとんど取り扱わなかった。朝日新聞の太田成美記者が現場に駆けつけ、Xで情報を発信しながらタイムラインで速報を続けたことは素晴らしい動きだったが、NHKもわずかに速報ニュースで報じたほど。本来は緊急生放送番組を編成して韓国と中継を繋いで報じるべきほどの事態ではなかっただろうか?
民主主義を守る現場である韓国の国会の前に多くの報道陣が集まっていた。一方で、この緊急事態をほとんど報じなかった日本のテレビ各局には「報道機関」としての矜持が失われているのではないか、と疑わざるをえない。
と日本の地上波テレビ局を批判しています。SNSでも、自ら自主的に戒厳令のニュースを同時通訳していたDr. Japanese Studies氏は
https://x.com/drjpstudies/status/1864000273196482941
「日本のオールドメディアは駄目だ」というチャットが結構あったけど、やろうと思えばできたはずなんだよなぁ。今回の事案が起きてすぐ韓国の記者たちはスマホだけ持って現場を中継した。日本の記者も現場に駆け付けた方はいた。それを地上波かネットで放送するかの問題。韓国はそれをしてるだけ。
と延べ、日本の報道に苦言を呈しています。
しかし、このような地上波テレビメディア批判に対し、いずみのかな氏は「ネットでは中継を行っていた」「日本のテレビ局は速報性より正確性・わかりやすさを重視したから、中継しなかったことに問題はない」などと述べ、それら批判は当たらないと主張します。
https://bsky.app/profile/runcoa.bsky.social/post/3lch6spqn622b
憶測や誤報の可能性も込みで分析が間に合わない状況でもリアルタイムで実況を視聴者に提供するか、メディアとしては取材と分析に力を割いてリアルタイム速報はwebやSNSに任せるか、は正確がある話ではなく選ぶスタイルでしかない、は間違いなくそうで、NHKも今回webではリアルタイム報道をしていた。
テレビについては報道局が制作担当している夕方から夜のニュースでの報道からが検証の対象になるということでもある。
昔はテレビで実況していた、はWEBが発達しておらず報道も視聴もテレビ中心だったから、は指摘されると納得する視点。
https://bsky.app/profile/runcoa.bsky.social/post/3lchnlte6422w
ついに晒し上げるけど、ネット上では記者やNHKが報道していたことは複数の人が指摘してて、朝日新聞の太田記者や毎日の日下部記者は現場で随時ポストしていたわけですが、出羽守として日本オワリクラスタ相手にインプレを稼ぎたいから「韓国は報道した(けど日本はできなかった)だけ」とまとめるんですよ。
https://bsky.app/profile/runcoa.bsky.social/post/3lchrvdqyts26
今はevery(NNN)見てるけど、昨日のソウルの現場に日テレソウル支局も向かって取材もインタビューも舌を巻くほど詳細かつ積極的にやってるので、やはり局として速報性ではなく取材、記録、分析の正確性を取ったということだろうなあ…。 テレビの速報性がない=マスコミの弱体化、という論点から分析を始めることがずれてるってことと思われ
しかしこれら主張は、以下の2つの点で間違っていると、僕は考えます。
- ネットでは情報が伝わらない人もいる以上、テレビで流すことが重要
- 「外国の映像メディアが中継している」ということこそが、暴力への抑止力となる
ネットでは情報が伝わらない人もいる以上、テレビで流すことが重要
いずみのかな氏は、地上波テレビで情報を流さなくても、ネットやSNSで情報が受け取れるから良いじゃんと主張します。
実際僕も、はなから地上波テレビなんかに期待はしてませんでしたから、当日は韓国テレビ局のネット中継と、CNN、それにXでの現地記者の報道で情報を得ましたし、それで特に不足はありませんでした。
一方で、じゃあ誰もがそのようにネットを駆使して、能動的に情報を受け取れるのでしょうか?
身近な例として、僕の母を挙げましょう。僕の母は、日本語が話せる韓国人のYouTuberを結構追いかけていて、そのせいで戒厳令のニュースが飛び込んだとき、たいそう不安がっていました。だからそのニュースについての情報がほしい。しかし、日本の地上波テレビ局は一切ニュースで報じない。
しょうがないから韓国テレビ局のネット中継を見るけど、韓国語はわからないから、結局情報はつかめない。かといって僕みたいに、BlueskyやXなどで記者のアカウントをフォローしたりしていないから、そういうSNSから信頼できる情報を得ることもできないわけです。
最終的に僕の母は、ちょうどその追いかけている韓国人YouTuberが生配信を始めたので、それを食い入るように見ていました。もちろん、その韓国人YouTuberも一般人ですから、そんなに情報が入ってくるわけでなく、ただ一緒に不安がることしかできなかったわけですが、その時母には、それしかリアルタイムの情報源がなかったわけです。
その母を見ていて、僕は、きっとこんな母と同じように、不安にかられている人々が日本中にいるのだろうなと思いました。僕の母の場合はまだ、推しのYouTuberの安否が心配というレベルでしたが、中には韓国に身内が滞在していたり、そもそも親戚が韓国人な人とかもいるでしょう。そのような人々の内、いずみのかな氏や僕のように、ネットを駆使して情報を得られる人なんか、ほんの一握りにすぎないわけです。
そのような人々のことを考えると、僕は、ネットではなく地上波テレビにおけるリアルタイムの報道こそが、必要だったし、それをすることが地上波テレビメディアの責務だったのではないかと考えるわけです。
「外国の映像メディアが中継している」ということこそが、暴力への抑止力となる
さらに言うと、今回は戒厳令という点で、韓国国内の報道機関がもしかしたら検閲されるかもしれなかったわけです。つまり、隣国の報道の自由が危機に瀕していたわけです。
そして、そういう場面では、海外の映像メディアにおける報道が大きい意義を持つことは―「タクシー運転手」を見ればわかるように―まさしく韓国の歴史が証明しています。
日本の地上波テレビ局がもし韓国の戒厳令布告後、即座に報道特別番組などを流せば、それは「日本は、韓国の市民に連帯し、韓国の民主主義体制が脅かされることがないか、報道の自由が侵されることがないか、きちんと注視しているぞ。」という、象徴的なメッセージを伝えられたかもしれません。
しかし日本の地上波テレビ局は、それをしなかった。それどころか、ユン大統領について「クーデターはいけないことかもしれないけど親日だし~」と、擁護するわけです。
それは、かつて「同じ西側諸国だから」といって軍事独裁と人権侵害を容認してきた、恥知らずの汚辱にまみれた、昭和の日本と何が違うのか?
https://bsky.app/profile/darakeru.com/post/3lci47bou3k26
韓国の戒厳令解除と大統領弾劾に対する地上波テレビのニュースを見ていたのだけれど、「親日派であるユン大統領の退陣により日韓関係に悪影響が~」という分析が多くて、とても違和感を覚えた。親日ならなんでもいいのかと。
そこら辺の、日本のアジアに向ける視線って、「日本と同じ西側に属していて都合がいい」という理由で、パクチョンヒやチョンドファンの軍事独裁・人権侵害を認めてきたり、それこそインドネシアのスハルトやフィリピンのマルコスといった開発独裁を利用して、現地にODAという名の経済侵略をしていたころと全く変わってないんじゃないかと。
僕は、1987年、そういうアジアの開発独裁体制が民主化されていった年にちょうど生まれた。 そして、その民主化の過程で日本も、やっと戦中・戦後の、加害者としての責任を自覚し、独裁者ではなく民衆に連帯することが、民主主義国家として当然の責務だと、そう思う国になっていったと、そう思ってた。 でも、現在の、韓国の人々がギリギリのところで流血の事態を避け、独裁者を退けたのを見ながら、そのことに称賛をするどころか「これでユン大統領が対人したら日韓関係が~」とか言ってるメディア・学者を見ていると、結局昭和の頃の恥さらし日本から何も変わってないんじゃないかと、暗澹たる気分になる。
https://bsky.app/profile/darakeru.com/post/3lciodybdns2a
大手マスメディアの解説記事で「でもユン政権によって日韓関係は改善して〜」みたいな解説が、なんの留保もなく流されることに相変わらず腹が立っている。
クーデターを起こそうとするような大統領じゃなきゃ日韓関係が改善しないとすれば、それはそもそもこちらが求めてる「日韓関係の改善」とやらが、非民主的で、国民を抑圧した体制でしか成し得ないってことなわけ。
「そういう韓国国民が望んでないものを押し付けるような、日本が考える形での『日韓関係の改善』というものが、そもそもおかしくて、正義に反するものなんじゃないか」と、なぜ思い至らないのか。
以上のような、戒厳令騒動後の地上波テレビメディアにおける報道を考えると、やっぱり日本の地上波テレビメディアは、擁護しようがないぐらい堕落しきっていると言わざるを得ないと、僕は考えるわけです。