#国際母語デイ
京阪神でぬくぬくと育った自分は、大きなこちら側とあちら側という意味での母語を実感したことはあまりない。せいぜい、高校時代にESSに所属してクリスマスにALTの先生からもらったサンタ帽を妹にあげたと言ったら「ムッ」とされた感じが伝わってきたり、「最近、どう?」と聞かれてなんとなく「boring」と答えたら「boring!」と「ギョッ」とされたことや、大学に入ってOX大のB先生が集中講義にお越しになったときに「日本語って特殊な言語ですよね?」とウキウキしながら聞いたら「全然」「表記以外は簡単」と言われて「そうだったのか…」と思ったときだろう。
日本語も英語も第2外国語で学んで自己紹介のフレーズ以外忘れてしまったフランス語も、イメージで捉えていたというか、文法はたしかにあったんだろうけれど、言語を隔てる文法のフレームがつくる垣根の向こうにある、というかその垣根に肉付けされている意味のイメージを感覚としてはよく意識していたと思う。
したがって、言語の違いをよりつよく意識するできるようになったのは、言語学やら日本語学の概論を偉い先生が書いた教科書をせっせと要約しながら何度も何度もループもののように繰り返し教えるようになってからで、特に違いを感じるのは音声・音韻・韻律の領域で、これは意味しか見ていなかった自分にとってはとても新鮮だった。そして、それを知ることによって、プリミティブかつ客観的なところで言語類型の違いが見えるようになった。すると、研究会や学会に出たときも楽しい。
母語の違いというと、言語相対論が浮かぶ。ジャッケンドフの本を読んでいると、生成文法の世界ではそれは「誤差の範囲」なのだそうだ。かたや、認知的な観点で考えると、主語が義務的か述語が主語のすぐ後にくるかは、出来事のフレームをどういう視点から位置づけて見るかの違い(エゴセントリックとアロセントリック)で、アカデミック・ライティングでつねづね、日本語も主題のすぐ後ろに述語がきたらオチがすぐ分かっていいのにと思いつつも、むりやりそれをやろうとするとへんちくりんな日本語になる理由もわかるようになった。言語が違えば感受から認知への方向性は変わるようだが、なにがしかの認識そのものができたりできなくなったり、ということはないと思う。
さて、母語間の縄張りのはなしから、母語内部での質の違いについて考えたい。となると、それは標準語と方言の話に帰着する。関西でぬくぬくと育った自分は標準語をいつ身につけたのだろう。身の回りの関西のことばと、そうではないパキパキしたことばがあることに気づいたのは日曜日にテレビで『笑点』や『サザエさん』を見ていた幼稚園くらいのときに突然気づいた。しかし、親の話では幼稚園に入る前は「きれいな標準語」でしゃべっていて、タクシーの運転手さんから「ぼく、東京の子?」とよく聞かれたらしい。たしかに、幼稚園前くらいの子どものことばづかいを道ばたや公共交通機関の中で観察していると、標準語的なものをしゃべっている。親が世界が家庭内だけの段階では努めて標準語で話しかけるのか、『おかあさんといっしょ』や『アンパンマン』の影響なのかもしれない。しかしそれも、幼稚園や保育園という「地域社会」に参加した途端、地元のことばで日常的な発話のあり方が上書きされるのは興味深い。ことばは他者との関係性のなかにあるのだろう。
公共交通機関の中で聞こえてくる生活の中のことばづかいとして、つねづね気になっているのは「無色透明な関西弁」と私が読んでいるものだ。これは、神戸の私立高校に通う女子生徒がよく使用しているのだが、語彙語法は標準語なのだけれど、アクセントやイントネーションがところどころ関西風な標準語のことだ。一方で、小学校高学年くらいの一部の女子が男子に対して「おまえ〜しとったぞ」とか「おまえ〜やぞ」とか非常に荒っぽい感じの言葉遣いを使い、それが中学校にあがったころに「しゅん」とおさまるのも発達段階と社会、ジェンダーの問題としてある気がする。散歩のなかで見かける日常の何気ない言語運用はときおりなんじゃこれはという問いを与えてくれる。
わたしの専門は比喩の意味論なので、最後に比喩のはなしもしておきたい。比喩というものも人間の認知においてプリミティブなもので、身体性と経験を軸にして通言語的に存在している。この部分を強調すると言語の違いを忘れて単純化してしまいそうになるが、記号的な部分や文化的な部分での違いはある。たとえば、形態論で言うと名詞と動詞を同じ形の単語で表現できる言語はメトニミックな意味のシフトをやりやすい。これが日本語だと名詞にスルをつけてしまうのでなめらかなシフトには見えなくなる。前置詞が豊かな言語では名詞や動詞以外に前置詞にも比喩が生じる(日本語でも格助詞の意味が空間的なものから時間や因果に拡張するが)。一方で、文化的な側面での比喩のあらわれかたの違いを考えると、川がない世界では川を使った比喩は生まれない。たとえば、日本語では時間の経過を川の流れに喩えることはあたりまえだが、砂漠の世界ではそういう概念化は行われないようだ。また、「所変われば品変わる」ということわざがあるように、同じ発想を表現するさいに使用される小道具が変わってくる。英語では無用の長物を白い象と言うらしい。このように比喩は認知的なストラテジーなので言語を超えて潜在するものだが、それが表に現れるときのあり方に言語や文化の違いがフィルターとして働くようである。
このように、あまり母語というものを意識しない世界で生きている。母語の輪の中をぐるぐる回っている感覚がある。話者が少数しかいないコミュニティに飛び込んでいって「この言語、埋め込みがないの!」とか「時制がないの? だから幸せなの!?」とか言ってみたいのだけれど、「京都弁ってなんか大阪弁とは語彙や韻律が違ってて、神戸のとぅとぅ言ってる地域の出身者からすると風流でいいなあ」と思いながら、ドトールで京都のおばあさんたちの会話に聞き耳を立てている。